岩崎弥太郎について
岩崎弥太郎(いわさき やたろう)とは、幕末から明治にかけて活躍した実業家。三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。 岩崎弥太郎は、1835年1月に土佐国、現在の高知県安芸市の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男として誕生 21歳の時に江戸へ遊学、安積艮斉の塾に入りますが、父親が投獄されたためまもなく帰省。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。
1867年に、高知藩に職を得、開成館長崎出張所に勤務し貿易に従事。坂本龍馬の海援隊が土佐藩の外郭機関となると、隊の経理を担当。 1868年、長崎の土佐商会が閉鎖されると大坂の土佐商会に転じ、翌年、土佐商会は九十九商会と改称し、海運に従事。後に社名を三菱商会、郵便汽船三菱会社へと改称します。
岩崎は、台湾出兵や西南戦争の軍事輸送などを担当。さらに、鉱山・造船・金融・貿易など多方面へ進出。反三菱財閥勢力による新汽船会社共同運輸が設立されると激しい競争が続きますが、弥太郎は競争渦中の1885年に病死し、事業は弟弥之助、長男久弥に継承さることになります。
坂本龍馬と岩崎弥太郎は同じ1935年生まれ。二人が最初会ったのはいつなのかはわかりませんが、1867年、龍馬が脱藩を許され、亀山社中が海援隊と改名し、龍馬が隊長となると、岩崎弥太郎は会計を担当することになりました。 同年、海援隊の船「いろは丸」が、紀州藩船明光丸と衝突して沈没するという事件が起こりました。この交渉に後藤象二郎、龍馬、そして弥太郎があたり、激しい攻防戦の末、弥太郎が持ち前の才能を発揮してたくみに交渉。紀州藩に8万3千両の賠償金を払わせることに成功しています(後に7万両に減額される)。
しかし、弥太に、紀州藩が支払いに応じるという知らせが入ったと同じころ、龍馬が近江屋で中岡晋太郎とともに暗殺されという知らせも入ったとされています。 龍馬の死後、海援隊は求心力を失い分裂、1868年に解散させられることに。その後、海援隊の事業を後藤象二郎は土佐商会として、弥太郎は九十九商会として発展させ、1873年に三菱商会を設立させます。 龍馬がいた頃は海援隊の金庫番として活躍し、龍馬亡き後、龍馬の残した船で海運業を営み、一大財閥になったのが岩崎弥太郎です。
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